長野県飯山市という、新潟との県境に位置するところからフリーペーパー「鶴と亀」をつくる小林くんがはるばる山梨にやってきました。
小林くんは過去BEEKのイベントに2回も来てくれているという、片道3時間をものともしない、フットワークの軽さが売りの25歳。
なんとひとまわり歳が違うw 干支が一緒と聞いて、今まで普通にしていた会話が奇跡のように思えましたよ、ほんとに。
ヒップホップで育ってstillichimiyaをずっと聞いてきたという小林くんが山梨のことをいろいろ知りたいというので、山梨アテンドをすることに。
石和のドンキホーテという山梨のランドマークで待ち合わせ。その後、山梨市のデリーベイでキレ系カレーな昼飯を食べ、一宮のモグモグパンへ。
stillichimiyaへの想いと、パン屋をはじめた話などとても深い話。なんで、この場所で勝負するのか。
それは僕らにもとても関係あること。なかなか変わらない、人の気持ちを変えていきたいって思っていること。うむ、とても濃い話だったなー。
そして富士山の麓、富士吉田市へ。SARUYA店主と同年代トーク。どちらもだいぶ歳下だけど自分でやりたいことを見つけて、それを叶えている。
自分の25、26歳の頃を思い出すととても考えられない。なんなんだ、キミたちは! とわりとツッコミを入れている。
小林くんと去年の年末に会って、「地域のフリーペーパー同士でコラボするって今まで見たことないっすよね? やったらかっこよくないっすか?都会じゃなきゃ面白いもの作れないなんてもうないっすよね。地方から発信していきましょうよ」という話になりました。(僕がこういう感じで受けとっただけで、本人の言葉はもうちょっとマイルドでしたけど)
小林くんが作る「鶴と亀」は、冊子を見ればわかるのですが、日本でこれを作れるのは小林くんしかいないというおじい、おばあの世界観。
もしかしたら誤解されかねない内容もあるかもだけど、そこには彼の信念や発信したい想い、自分の婆ちゃんが好きすぎて始まっているというきわめて個人的な動機があります。
だからこそ信用できるし、それを続けるという個人の強さを小林くんに会う度に感じています。
「鶴と亀を作るのはミュージシャンとしてアルバムを一枚作っているような感じなんですよ。音楽だと、地域と地域をまたいでコラボとか多いじゃないですか。そういうの、かっこいいっすよね」
かっこいいことを求めるって、すごい純粋なことで、一番やりたいことなのかもしれない。だけどどんどん歳をとると、理由をつけてかっこつけなくなる。
ということでかっこつけて、地域をまたいだフリーペーパーを出すことを心に誓いました。
歳の離れた若い子から放たれたリリックにアンサーしないことほどかっこわるいことはないですからね。
鶴と亀×BEEK、今年実現させます。その想いと、未だIssue05が出ない自分への戒めとしてブログに書いておきます。
次は山梨メンバーで飯山に遊びに行きたい〜。温泉メインで。
甲府の春光堂書店で買って来た「圏外編集者」。都築響一さんの語る編集や本をつくることの意味。
都築さんが今までやってきた編集の跡が雑誌や書籍として残っていてその痕跡を見てきたことが、今の自分の仕事にとても大きな影響を与えてくれています。
本やデザインを通して、伝えたい、残したいと思って今の仕事をはじめた原因の一つと言ってもいいくらい。
ぼくが今の仕事をしているきっかけは、雑誌が好きで雑誌を作りたいと思ったから。
大学卒業後、就職活動もせずフラフラしていたのですが、そろそろ今後の仕事を考えようと思った時に、好きでよく読んでいたBRUTUSやrelax、STUDIO VOICEに影響され雑誌を作ってみたいと思ったんです。
でも山梨でくすぶっている田舎者で、雑誌がどうやって作られているかなんてわからないし、そもそも編集者ってカテゴリがあることも知りませんでした。
結果、デザイナーとしてその門徒を叩くことになった25歳。東京に上京して小さな編集プロダクションや、雑誌を発行している編集部でデザインをしながらも取材や撮影に赴くということを始めたのです。今山梨でやっているスタイルの原型です。
特に「Tokyo graffiti」では取材しまくった。表参道で声かけた若いこの家に次の日には行って部屋を撮影するとか、新宿2丁目に行ってアポ無しでレズカップルを探すとか、agehaや渋谷のWOMBのクラブで深夜の取材とか、高校生1日50人撮影しまくるとか。
短い期間しかいなかったけど、とても多くのことを体験させてもらった雑誌です。
そんなこんなで、僕はデザイナーとしての仕事は好きなんだけど、それ以上に編集という職業が好きなんです。デザインの領域にも編集がないと成り立たないし、編集者であり続けるということは、自分の視点を持ち続けるという、ある種自分と向き合い続けることでもあると思うんです。
「圏外編集者」を読んで、忘れそうになるその編集者としての気持ちをこれからも持ち続けようとあらためて思わせてくれました。
都築さんは言います。「読者を見るな、自分を見ろ」
たぶん、どんな職種の人も多かれ少なかれ、編集という作業をしているはずです。
編集は選択の連続作業です。
やまなしのアートディレクターと名乗っている今の肩書きを僕という個人を通して分解して直訳すると、「デザインや写真というツールも使える編集者」。
デザインや写真はもちろん好きだけど、すべて編集のもとで光り輝くものだから。
だから僕はいつかデザイナーをやめたとしても、編集者ではいたいのです。
人生も編集という視点で見れば、誰しもが編集者だと思うんですけどね。
BEEKを作る意味はいろいろあるのですが、僕がほぼ一人で作っているというところにも大きな意味があると思います。
本を作りたいって、ほんと衝動なんですよ。
このワクワクする衝動をもっと多くの人に伝えたいし、いろんな人の衝動を見てみたい。
デザインの仕事で忙しくなっている今、僕はとてもモヤモヤしています。
4月以降、自分の仕事を少し見つめ直しながら衝動を大事にしていこうと思った雪の積もる日。
keith Jarretの「The Melody At Night,With You」。たぶん、人生で一番聞いているアルバム。
好きなことに理由がないアルバム。理由もなく心に染み込んでくるし、何度も聞いてしまう。
理由がないから、理由を考えたりもするのだけど見つかりません。
人間って行動に対して理由を付随させたり、生きていくことに対してもっともらしい大義名分を語ってしまう。
でも、人を好きになるとか生きたいって本能で思うことは、やっぱり理由がないと思うんですよね。
このアルバムを聴いていると、そんな心の内側にある自分の“ほんとうのところ”を忘れないでいられる。
さて、取材に行ってきます。
(もちろん、ノリノリでアゲアゲでピコピコな曲も大好きなのです)
今年最初の打合せを甲府のパタゴニアの南喫茶店で。すごい偶然隣に北杜市の友人二人が来るという幸先のよい仕事の始まり。気持ちのよい空気が流れている場所で、エネルギーあふれる人に会ったのでなんだかとても元気が出ました。お正月から仕事モードにぜんぜん切り替わっていなかったのでちょうどよかったなぁ。
打合せは、4ヶ月かけて富士吉田や西桂町を取材してきた郡内織物を伝える冊子の制作やイベントのはなし。今月にはやっと発刊できそう。僕にこの仕事をかなり自由に任せてくださった県の職員の方がいるのですが、とても丁寧に細かい事務処理を進めてもらい、結果僕は制作にとても集中できました。こんなに細かいことに目が届いて、しかもかなり広い視野で未来を見ている人が県の職員として在籍されていることにとても驚きました。取材をしていく上で機屋さんたちからの信頼の厚さがハンパじゃないことを目の当たりにしたら、とても納得がいきました。
本当に今回の抜擢には感謝の気持ちでいっぱいです。それだけに、BEEK以上によい冊子を作ろうとやってきました。
リリースできるのが楽しみ。さて、今日も編集頑張ろう。
先日の大晦日の話ですが、創業明治元年の甲府のみそ屋、五味醤油さんで醤油の仕込みを取材&お手伝いしてきました。この日は出麹の日。
そもそも、五味醤油って名前でみそ屋ってどういうこと?ってなりますが、醤油は今はお休みしているから。もともとは醤油とみそを醸造してきたのですが、時代の流れの中で今はみそだけを作っているのです。「甲州みそ」という山梨ならではの米と麦がミックスされたみそ。くわしくはBEEK Issue04 「発酵している」を見てくださいね。
それはさておき、名前や数字にとてもこだわりのある五味醤油6代目が、ついに醤油作りはじめました。五味醤油と会社名に「醤油」が入っているし、まわりに醤油を作る職人や醤油を伝える人もいて、6代目が醤油を意識しないわけがないんです。
そして物語には始まりがあって、しょうゆを仕込む前に別の醤油屋さんに一緒に作れないかと話をしに行っているのです。
それは2014年の春にさかのぼります。6代目はこの頃、頭の中はだいたい醤油のことでいっぱいになっていました。ただ、醤油を造るにはお金もかかるし、設備や売り先はどうするんだってことがありました。そこでまず造る(五味醤油の蔵では設備が老朽化しているので、自社で全行程をまかなうのは無理なため)ところの協力を得ようと、東京の醤油メーカー「キッコーゴ」さんに共同で造れないかということを直談判しに行くことにしました。
ここから僕は一緒に手伝うことになるのですが、6代目が醤油を造るかどうか迷っている時、どうしても造ってほしいと僕は思ってしまったのです。業種は違うし規模も違うんですが、僕がBEEKを作りたいと思っていたときとなんだか似てるなぁなんて勝手に思ってしまって。僕も当時一人でできるか不安しかなかったのですが、それこそ最初の取材で出会った人にめちゃめちゃ助けられ(6代目もその一人)今までやってこれました。「醤油を造るべきでしょ」と6代目に言って、醤油を造るところからできあがって売るところまで最後まで手伝って見届けたいと思ったのです。
キッコーゴさんには企画書もちゃんと造って、醤油造りを巻き込む人にも根回ししたのですが、結局このお話は流れることに。後にこの企画書を見た発酵デザイナーが「これ誰得なのよ」と言われたのですが、巻き込まれる人はぜんぜん得しない(笑) ただ得はしないけど、面白いでしょってことは胸はって言えます。胸はって言えるように、みんなで醤油を造っていきたいんです。たぶん、それこそが6代目の想いなんじゃないかと。この企画書に書いてある「人の濃い醤油」という言葉が個人的にとても好きです。
キッコーゴさんが無理なら、県内にも醤油屋はあるということで、県内の醤油屋さんの協力を得て醤油を造ることになりました。
そして2015年の年末、ついに6代目仕込みをはじめました。醤油の麹ができるまで、3日間かかります。僕は最後の出麹の日にしか行けなかったのですが、テンヨ武田の頼れる姉さんが、3日間つきっきりでお手伝いしてくれるという最高のおもてなし。姉さんチェックは日々醤油を見ているので的確です。
いつもは味噌用の米麹、麦麹を造っている麹室で醤油の麹を造っています。醤油の原料は大豆と小麦。蒸した大豆と炒って砕いた小麦を混ぜたものに麹菌を加えます。3日かけてしょうゆ麹ができるのですが、それまでのあいだ、湿度や温度管理を徹底します。麹菌の繁殖にむらが出ないようにかきまぜたり、温度があがりすぎないように夜中も麹の手入れをしなければなりません。そして大晦日。6代目の愛ある手入れのおかげで、麹がモコモコできました。テンヨの姉さん曰く「元気すぎるくらいのいい麹」。げんき麹と名付けて、この麹を今度はほぐして塩水の中に放り込みます。大量の場合は木桶や大型のタンクになりますが、今回造る醤油はわりと小ロットなのでこちらの槽に。
櫂棒でまぜまぜ。FRPの櫂棒を新調する気合いの入れよう。気合いを入れてまぜまぜ。前日五味醤油のインスタを見て手伝いたいと手をあげてくれる人がいたりと大晦日の醤油仕込みは快調にすすみました。
こうして醤油の諸味ができました。この諸味が微生物の力で発酵・熟成させて醤油になっていきます。最低1年は寝かせるのかな。さらに最後には諸味を搾るという工程もあるので、ここを無事にクリアできるかも重要なんです。発酵していく過程から、搾ってそれをどう売っていくか。たぶん、その間にもいろいろな人を巻き込んでいくと思うので、僕は勝手に「メディア化する醤油」という視点で見ています。こうやって造ることに参加することで、僕は今日こうやってブログを書いています。手伝った人がインスタにポストしたりもしています。広がりは今からですが、醤油というこれだけ手間もかかる調味料を「メディア」という視点で、できあがる醤油自体を「メディア」にできるのではないかと。それこそ、ふだん編集やデザインやメディアを造っている僕ができる最大のお手伝いかなと。
BEEKの発酵特集で醤油を造る井筒屋さんを取材した時に思ったのですが、醤油はほんとうに手間ひまと場所、時間かかる。仕込んだ全量が醤油にならない(でも搾りかすは家畜のエサになって循環しているそうです)。当たり前なんでしょうが、当たり前が伝わっていないという事実もあります。
なにはともあれ、どんな醤油になるか造った本人たちもわかっていません。ただ、“面白い醤油”になることだけは間違いありません。この醤油で大好きな餃子を食べるのが僕の来年の楽しみです。最後に大晦日に仕込んだメンバーとパシャリ。工場長、長靴とジャージの組み合わせ最高です。
あっという間に2015年が終わって、2016年がはじまってしまいました。はじめて年賀状を年内に出せなかった。んー、毎年秋にはデザインしちゃおうと思っているのに、ヒドい有様です。反省。
去年はやまなしに引っ越してきて2年目の年で、BEEKも04号まで出せて、なんとなく繋がりの中でお仕事のお声をかけてもらうようになったり、よいご縁を取り持っていただいたり、イベントも多く開催したり出たりすることが多かったです。ほんとにありがたいことです。
とはいってもまだ2年。やまなしにちゃんと根付くようになるのに、最低5年ほどはかかると思っているので、今年もじっくりと、ていねいにご縁を繋いでいけたらいいなと思っています。
今年はイベント出るのを控えて、じっくりとBEEKというメディアに向き合うようにしたいと思っています。冊子とは別のメディアを作る時かもしれません。去年できなかった、各地域に出向くことも多くしていこうと思っています。
働き方を考えて、場所を整えて、メディアとしての立ち位置も考えて。
じっくり、ゆっくりと、根を張っていこうと思っています。世間の経済軸に翻弄されないように、常識にとらわれすぎないように、日常を生きていく。
みなさん(このブログを読んでいる希有な人は特に)今年もよろしくおねがいします。
先日、諏訪で開催された「まちの教室」に行ってきました。まちの教室については、諏訪のくらもと古本市に行った時にポスターで見てはじめて知りました。毎月第4土曜日に長野界隈のいたるところで開催していたとのこと。詳しくはこちらで。
http://www.naganocampus.net/about
午前中は友人の発酵デザイナー小倉ヒラクくんの授業。とても参加者からの評判がよかったとのことでしたが、こちらは仕事で行けず残念。
午後は秋田のフリーマガジン「のんびり」の編集長をしている藤本さんのお話。以前、あたらしい“ふつう”を提案する『Re:S』という雑誌を作っていて、リトルプレスが好きな僕はよく読んでいて、その誰にも似ていない編集の仕方がとても好きだったのです。
当日の藤本さんの話の内容を書き出すととても長くなるので、怠惰な僕は書けないのですが一言でいうとおもしろかった。
ふつうすぎる感想なんだけど、この「おもしろかった」という中に、様々な要素が含まれるタイプの「おもしろかった」でした。
ふつうって一番難しくてセンスもいるところ。その“ふつう”に身の回りがなるように地道にチャレンジングしているところはほんとにすごいことです。できそうでなかなかできない。僕らデザイナー、編集者がほんとは皆がやらなきゃいけないことだと思います。
紙切れ一枚だって不条理なこと多いですもんね。
さて、来週のローカルデザインの失敗で何を話せるか、今さらながら考えなきゃなー。
松本在住の詩人、ウチダゴウさんの詩の朗読会に行ってきました。朗読会なんてはじめて。詩は好きだけど、自分の解釈で勝手に読んでいたいほうなんで、あまり朗読会には興味がありませんでした。ただ、ウチダさん自身に興味があったので、はじめましての挨拶も兼ねて伺いました。
今回の詩の朗読で全国をまわる「ながいたび」は、スウェーデン・アイルランド・スコットランドと旅をした際に書いた詩を朗読するものでした。詩を読む言葉のフレーズの余韻が、その国々で感じたことの証なのかもしれません。
physisという富士見町にある、+nomosのメンバーがつくりあげたビニールハウスの空間がとても優しく言葉の数々を包み込んでいました。世界は言葉でできているのかもしれませんね。
もう10月が終わってしまう。今月はイベントが多かった。こうふのまちの芸術祭、こうふのまちの一箱古本市、カンティフェア、Be-Pal出店、トークイベントなどなど。
ブログに書こうと思ったけど、もうなんか終わって消化できたからいいかなーなんて思ってたら月末に。筆不精がなおらない。
そして11月がやってくる。
北杜市のChemin du bonheur(シュマン・デュ・ボヌール)に富士吉田から上條先生がやってきてた。SARUYAの赤松君もこの日はやってきた。この画像↑なんかちょっと心霊写真みたいでこわいなぁ。
上條さんがほぼ毎日書いている、絵日記がとても好きだ。毎日なにかを書くという、その行為の先が気になってしまうけど、日常に馴染んでいって意味なんてなくなっていくのかもしれない。
https://www.facebook.com/enikki.kamijo
僕には沸き上がる創作意欲なんてものはない。ただただ、日常を楽しくいようとする無意識だけが存在しているような気がする。
詩って人間にとってなくても生きていけるけど、あると安心するもの、地震のために備えておく非常食や水、懐中電灯のようなものじゃないかって思うんです。なんでこんなことを書いているかというと、先日TVをつけたら情熱大陸に谷川俊太郎さんが出ていたから。
詩って言葉の羅列、言葉を編むこと。そしてその言葉の意味を考えたり自分なりに咀嚼したり、胸にしまって何かというときに引き出してきたり、詩に勇気ずけられたり。
僕にとっても大事な詩もあります。谷川さんの詩もその中にあるし、いろいろ読ませてもらって、やはりそのとっつきやすさが身近に置いておきやすい言葉だななんて思ったりしています。
言葉が溢れる現在。詩なんていちいち読まなくたって、テレビやインターネット、音楽や広告、スマホの中など、言葉の渦が氾濫している。
大切な言葉がどこにあるのか、詩の意味がどこにあるのか、もしかしたらわかりにくくなっているのかもしれない。
大の男は自分の哲学と詩を心にそっと置いておくものだと、昔の小説家が教えてくれました。単純な僕はその教えをただ守っているだけかもしれないんですけどね。
ランボーやゲーテの詩もいいんだけど、谷川さんのとても遠くに思えることもとても身近に感じられる詩がとても好きです。
「万有引力とはひき合う孤独の力である」出展:二十億光年の孤独
仕事上、アイデアが一番大事になってきます。
アイデアを出してそれを形作るのが仕事のため、アイデアの引き出しはあればあっただけいいんですよね。引き出しの中に何十年と入れる長期のものから、出し入れ出し入れを繰り返す短期のものまで。
頭で想像すると、写真のようなのが脳の中にあって、そこからおみくじだすが如く、引っ張り出すみたいなイメージ。
確実に言えることは、最近インプットがぜんぜん足りていない。引き出しがあっても、中に何も入っていないのではなんの意味もないや。東京に行くとデザインが溢れています。さりげなく設置されている駅貼りのポスターだって、かなりのクリエイティブなプロセスを持ってそこに行きついているはず。
ローカルにずっといると、逆にちゃんとデザインされたものに出会う機会が少なくなる。
もちろんデザインされたものもちゃんとあるのですが、トータルでアイデアにあふれるものというのはやはり少ないのが田舎、特に山梨です。デザインや編集でやっていくことが山積み。人も足りないや。
とりあえず9月はインプットできるようにちゃんとしたい。8月の最大のインプットは、お盆にひさしぶりに漫画と映画を見まくれたことかな。
田舎者の誰しもが持つだろう東京への憧れを抱いていた20代そこそこの頃。東京と名のつく歌(くるりの東京やサニーデイサービスの「東京」というアルバムが主なところ)に感化され、東京で暮らすと何か田舎者の僕にもドラマが待っているのではないかと錯覚するような、そんなイメージを持っていた東京。
僕は阿佐ヶ谷に1年、国分寺に8年くらい住みました。中央線から離れられなかったのは、尊敬する大人(みうらじゅんやリリーさん、さらにはブームの「中央線」も影響大)たちが若い頃は皆そろって中央線に住んでいたという逸話によるもの。山梨には1本で帰れるという便利さもあるし。ライブに行ったり、クラブに行ったり、2丁目に行ったり、街を歩いたり、東京のディープな世界は、たぶん何年住んでもその楽しさはあると思っています。
今は山梨に帰ってきたけど、たまに刺激をもらいに行く東京。田舎でも都会の人が刺激を求めて遊びに来れるような、そんな関係性がいいね。
では聞いてください。銀杏BOYSで「東京」
塩山にあるワイナリー、機山洋酒工業さんに仕事の取材で伺った。山梨に帰ってきて友人にすすめてもらって飲んでから、好きになって飲めない僕が一番良く飲むワイン。
KIZAN WAINEを醸造する僕と同じ名字の土屋さんには、以前お食事の場でお会いしたことがあったけど、あまりちゃんとお話を聞けなかったので、甲州市のお仕事があったのでぜひ話を聞いてみたいと提案したら、見事に通った。ほんと、編集の仕事している役得だなぁとこういうときはいつも思う。
家業でワインを造るということは、日常が全てそこに集約される。掃除して、ブドウを育てて、醸造して、できたワインを自分たちのワイナリーでも売る。
家業という形態であることが、とても大きなことなんだろうなと思った。デザインの仕事は家業になるのだろうか? そんなことが頭によぎった。
土屋さんはとても心優しい人だと思う。その分、あらゆることに対して厳しい目も持っているのだと思う。
この日のはなしは秋くらいに出る「甲州らいふ」というフリーマガジンで読むことができます。学生たちが取材してくれました。
学生たちにとっても、あらゆる大人の話がこれからの日々のちょっとしたきっかけになるといいな。